2011-07-04

鳥居が修復されました

先般の東日本大震災で当神社の境内でもいくつかの被害がみられましたが、本日ようやく西側の石造鳥居の補修が終了しました。

この鳥居は震災当日、倒壊は免れたものの柱が不安定になってしまい、さらに貫石(ぬきいし)も割れてしまったので、補修が必要な状態になっていました。鳥居は二本の柱と上下二本の横棒で構成されていますが、貫石とは下の横棒のことです。

kettei.jpg

補修は27日にスタート。

簡単に工程を説明すると、先ずクレーン車を用いて笠石という上の横棒をはずします。
次に破損した貫石を撤去して、今回新しく加工した貫石を差込みます。
最後に再び笠石を上に載せるといった工程です。さらに不安定になっていた柱を据え直し、鳥居全体の洗浄作業も行いました。

今回施工していただいた石材屋さんは石造鳥居の補修に関しても経験豊富で、工事は手際よく安全で速やかに終了しました。
本当にありがとうございました。

ところで今回の補修でわかったことがひとつ。

それは鳥居の一番上部にある笠石にまつわることです

この鳥居の笠石は真ん中で分かれる形式のもの。
つまり二つのパーツを真ん中で組み合わせて一本に見せるという構造なんですが、この二つのパーツは同時に製作されたのではなく、どうも異なる時期に製作されたようなのです。

なぜなら、一点目に今回洗浄したところ両者の色が微妙に違ったことです。
写真でもわかりますように左右微妙に白さが違います。向かって右側のほうが若干白いですよね。

kasa.jpg



二点目は一番上の面の形が左右異なっていることです。
下の写真は笠石を構成する二つのパーツ。この二つを真ん中で組んで一本にするのです。
ちょっとわかりづらいんですが、屋根の面が一方は平らになっており、一方は山形になっているんです。

nuki.jpg
残念ながらこれらの理由は不明ですが、恐らくある時期に破損して新たに製作したのだと思われます。


この鳥居、一体いつごろ破損したのでしょうか・・・?

そこでちょっとこの鳥居に関する歴史をひも解いてみたいと思います。

幸いこの鳥居に関しては江戸時代の史料に出てきますし、柱にも銘が刻まれていて、簡単な由緒がわかります。

それらによりますとこの鳥居は文化2年(1805)に南新堀一丁目の有志者が八幡宮の三の鳥居として奉納したとあるそうです。
南新堀一丁目とは現在の中央区新川にあたり、現在でも八幡宮の氏子さんです。

その後、この鳥居は大正12年の関東大震災により倒壊したため、大正14年に再び南新堀一丁目の人々により補修されたとあります。

残念ながら確証までには至りませんが、恐らく今回の笠石は関東大震災後の補修ということが言えそうです。

なお今回の鳥居は江戸時代に三の鳥居と呼ばれていたもので、一の鳥居は現在の永代通り、門前仲町一丁目の交差点よりやや西に行ったところにあり、そこから八幡宮の参道がスタートしました。

木造の鳥居で木場の旦那衆の奉納だったと伝えられます。また参道の両側には料理茶屋が建ち並び大変賑やかだったそうです。

下の絵は一の鳥居を描いたもの。当時の賑わいが想像できますね。

DSCN0694.jpg


二の鳥居は現在の八幡宮正面参道の入口、永代通りに面してあり、当時は鳥居の後方に大きな表門もありました。

この二の鳥居は現在その役目を果たし資料館裏側に横たえてあります。下の写真は当時の二の鳥居と表門を写した絵葉書です。
ni.jpg


そして今回の主役である三の鳥居は現在の正面参道、神輿庫前付近にあり、昭和39年頃まではその位置にありました。その後現在地に移されました。下は三の鳥居を写した関東大震災前の絵葉書です。

sann.jpg



さて今回の鳥居は文化2年建立という歴史あるもの。
永代橋が崩落したという有名な文化4年祭礼をはじめ様々な歴史の目撃者でもあるんですね。

また八幡宮には十一代将軍家斉、十二代家慶、十三代家定といった歴代将軍も参拝したとのことですから、きっとこの鳥居をくぐったに違いありません。

そのほか深川にゆかりの著名人は列挙に暇のないほどたくさんいましたから想像するとワクワクしますし、感慨深いものがあります。


今回無事に復帰した文化2年の石造鳥居、これからも末永く八幡さまを見守り続けてくださいね


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担当 松
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